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Channel: 珈琲タイム
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『世界は「使われなかった人生」であふれている』

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田舎の中学生だった頃は、野球部活動や借り出されての駅伝ランナーとしての練習がもっぱらで勉学には比較的のんびりとしていたが、3年生の夏に県大会で敗戦投手として終わった後はそうもいかなくなり、県立高校受験を前にして野沢那智と白石冬美のラジオ深夜放送『ナチチャコパック』(パックインミュージック)を聴きながらの勉強に勤しまざるを得なかった。汽車(電車ではなく)通学に1時間半を要した高校でも無理して野球部に入り、結局は甲子園も遠くに望むのみに終了した。「自分とは何か」「これからどう生きていくのか」「社会の中で自分なりに生きるにはどうしたらよいのか」といった漠然とした問いが頭の中に漂っていた。取り敢えずは『後悔しない人生を送りたい』と、今思えば赤面してしまう陳腐な言葉を藁半紙にマジックインクで書いて目の前に貼り出したことを思い出す。「これこそが本当の自分だ」と云う自我同一性(アイデンティティ)の形成期の入り口だったのだろう。そしてこれより、大学を卒業し新卒医師としての(その頃は)薄給を手にするまでが、私にとってのモラトリアムの期間だった。その後も幾つかの迷いと当然の挫折や失意、そして得意期などを織り交ぜてのありふれた、しかしながら自分なり(それなりに唯一)の人生行路を経て今に至っている訳だ。

ところで、アイデンティティの構築は青年期だけの問題ではなく、中年期老成期において何度も繰り返して再構築されるものだと云う事が近頃一層理解できるようになった。上手く行けばアイデンティティは構築されたままに人生を送る事が出来る。上手く行かない人は人生において何度も構築されていたはずのアイデンティティが不安定化するのを経験して、人生の停滞を経験するという。熟年においては深刻な問題である。無意識の中で不安定化を避けたいとの願いが表面化するのが、『人生の守りに入る』ということかもしれない。積極的展開を企画せず、決めるべきことを先送りする態度をさす言葉と理解している。責任を果たさず、隠居を前にして事勿れを追求する姿勢が顕著になる。引退する人の挨拶に『大過なく職務を果たした』とあるのは、まさに『守りに徹しきれた』ことへの安堵と弁明の気持ちが込められているように感じる。

好きな作家に沢木耕太郎がいる。ルポライターとしての記事もいいが、小説もなかなかに素適だ。中でも『世界は「使われなかった人生」であふれている』(幻冬舎文庫)は、そのタイトルからして読み手を誘う。あの時、もうひとつの選択肢を選んでいれば自分の人生はどうだったろう?

It is never too late to become what you might have been.

『なりたかった自分になるのに、遅すぎるということはない』

この言葉を胸に、一皮むけた成長を誇ってみたいと思う日もある。

 


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